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○明治自然主義の名作「田舎教師」
明治32年、父と共に熊谷から行田に夜逃げしてきた小林秀三は、行田から三里の道を歩いて熊谷高校に通学し、苦学のすえ卒業する。そして羽生在の小学校の代用教員となるが、日露戦争の大勝のさ中に、羽生の建福寺でひとりさびしく病死した。その薄幸な青年の生涯をモデルに、行田・羽生を舞台にした小説が田山花袋が描いた『田舎教師』である。おかげでかつては、明治文学・自然主義文学に興味を持つ学生達が、年々「文学めぐり」に行田地方を訪ねてきて、なかには大仏次郎や川端康成も来たらしい。
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▲建福寺の小林秀三の居間 |
羽生の建福寺に訪ねていた田山花袋が、偶然、新しい墓石をみて、小林秀三の事を知り、「さびしく死んで行く青年もあるのだ」と感じたのが「田舎教師」の執筆の動機だったらしい。それから後、花袋は六、七回にわたって行田を訪ね、石島郁太郎の案内により、行田、熊谷の実地調査をしている。
既に『蒲団』で名声を博している文豪を案内した文学青年石島郁太郎氏は「自分が執筆する様に興奮した」と語ったことがある。行田地方の風物が、生々と、大体間違いなく描写されているのは、確かに石島氏の文学的案内があったと思う。これを文献に尋ねると、花袋の「梅雨日記」に「新に着手すべき「田舎教師」の材料を蒐集する為、武州行田町に赳く。此用にて此町に来る、既に五、六回なり。馬車鉄道を町の角にて下り、石島君を訪ふ、始めてなり。青縞商。角帯に眼鏡。家に病人あればとて、二三軒先の行田青年倶楽部の二階に誘はる。田舎教師の主人公の書簡及び遺稿を示さる。(中略)今津君来る。共に出でて、行田の城址を散策す」と。
明治42年6月、石島と今津が花袋を連れていった行田青年倶楽部は今の本町の大島薬局と飯田屋奈良漬店のそばで、北埼信用組合の跡にあった。行田倶楽部というのは、いわば今で言う商工センターというようなもので、行田の商工会議所の誕生したところといってもいいのであろう。忍町商工会、行田足袋同業組合等が入り、忍学友会(熊谷中学の生徒会)、忍十五日会の図書がここに入って発足していた。
○主人公 林清三のモデル
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▲右が小林秀三 真ん中おいて
左が萩生役の藤原善三郎 |
「田舎教師」の主人公、林清三のモデル小林秀三は、明治17年、足利で生まれた。
父小林新三郎は、足利市の織物問屋で明治12年には同業の総代の一人にまでなったが、明治25年の辻豊の大火で類焼し急激に没落して、明治26年春、秀三の八歳の時、熊谷の「郵便局の前の小路の奥に、一家はその落魄の身を落着けた」そして、彼の中学四年生まで、そこにいて、明治33年冬「行田町の大通から、昔の城址の方へ行く桜町にあった」行田の家へ、「冬の月が照って、二台の車の影と親子四人の影とを淋しく黒く地上に印し」「彼是十二時に近く」夜逃げして来て、明治37年まで、足かけ7年を行田にすごした。
「家は行田町の大通から、昔の城址の方に行く処にあった。角に柳の湯という湯屋があって、それと対して綺麗な女中のいる料理屋の入口が見える」とあると、今もある「柳の湯」と「料理屋魚七(現在のバーミアンの処)」からして、その角を南へ曲がったあたりだったようだ。父が書画など取り扱う程度だったので、家計も苦しく、代用教員となったのは、小説の通りである。
○その他の登場人物たち
小林秀三の他に花袋は行田に実在した人物をモデルに小説に登場させているので紹介します。あわせて小説を読み直すと面白いかもしれません。
加藤郁治(本名 狩野益三)
視学狩野徳次郎の子で、小林秀三とは、熊谷高校の同級生。大きな体で、角ばった顔だった。不動岡中学(高校)、熊谷商業で教鞭をとっていた
石川機山(石島郁太郎、儀助、薇山)写真右から3番目
行田本町の、今は飯田屋となっている土蔵の大きな家で、古い青縞問屋の長男。俳句で有名な石島鶏子郎は弟分
澤田〜行田印刷所(本名 今津寛之助)右から5番目
江戸時代より木版業であったが今津徳之助が、県下でさきがけて明治18年頃、活版所となったという。寛之助は、熊谷高校で同級生で、共に徒歩で二里半の道を通学した。
大島喜代三郎 写真一番右
本町の大島薬局。熊高の同級生
荻生(本名 藤原善三郎)
羽生郵便局、熊谷高校の同級、熊谷の人、作中でも、最もよく秀三の世話をし、その建福寺の墓石を作った人
(はあとぴあ2005年1月号)
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