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行田昔話

春日神社の鹿

春日さまは子供好き

お菊稲荷

剣神社

しなび山のしなび竹

深夜の早駕籠

忍城ものがたり @行田氏の館

忍城ものがたり A成田氏の忍城

忍城ものがたり B甲斐姫と忍城

忍城ものがたり C忍城水攻め

忍城ものがたり D忍城開城

忍城ものがたり E甲斐姫その後

忍城ものがたり F忍城、徳川家へ

忍城ものがたり G江戸時代初期の忍城

忍城ものがたり H忍城と阿部忠秋

忍城ものがたり I三方領知替え

忍城ものがたり J松平下総守の先祖

忍城ものがたり K鳥居強右衛門

忍城ものがたり L藩祖 松平忠明

忍城ものがたり M白川騒動

忍城ものがたり N松平忠堯 忍城へ

忍城ものがたり O松平忠国の沿岸警備

忍城ものがたり Pサヨナラ忍城

田山花袋の『田舎教師』

 

 

春日さまは子供好き

春日神社の鹿

 谷郷の春日神社は、忍城主成田下総守が氏神として奈良から勤請したものであった。奈良春日神社の神苑の鹿が毎年二頭づつきたという。この鹿は神の御使いなので、誰もが大切にした。だから鹿は付近を飛び回り自由に生活していた。いつも池上の岩倉さまのほうから田のあぜを伝って、春日さまの森へ鹿が飛んでくるのが見えたという。ある日のこと、谷郷の青木某が田のあぜ近くで耕していると、いつものように鹿がやってきた。ふと好奇心にかられ、鹿を捕まえてやろうと手に持っていた鋤を走る鹿目がけて投げつけたという。鹿は鋤を後足に受け、血をたくさん流して春日の森に入った。翌朝のこと、鹿は森の中で死んでいた。発見した村人は集まってていねいに鹿を葬り、森のそばに墓石を建てた。この墓はいまもある。1762年)壬午四月と刻まれている。今から二百十七年前の話である。鹿の墓は春日神社の裏にあって、小さな笠塔である。(はあとぴあ2002年12月号)

 暑い夏のこと、太陽がきらきらと光っていた。谷郷の春日さまのお社のあたりは青田におおわれ、お宮の森が涼しい蔭をつくっていた。多数の子どもたちがセミ取りに余念がなかったが、いつのまにかお宮の奥に入り、春日さまの木像を取り出し、おもしろがってワッショイ、ワッショイと持ち上げてさわいだ。川の岸までくると、自分たちは水泳を始めたが、春日さまも暑かろうと川の中に入れ、子どもたちも大喜びであった。ちょうどそのとき、神主が帰ってきて、このありさまを見て腰を抜かさんばかりに驚いた。神主の姿を見て子どもたちも一目散。神主はこごとをいいながら濡れた春日さまを抱きあげ、井戸端できれいに洗い清め、奥宮に納めた。

 その晩のことである。神主はにわかの大病。占者に見てもらうと,春日さまのご立腹という。春日さまが子どもたちとおもしろく遊んでいたのに水からお上げして、それでご立腹だという。さっそくそのとおりにすると、さしもの大病もすっかりなおった。春日さまはほんとに子どもがお好きであると、今に語り伝えている。純真な子どもの心は、神に通ずるという民間信仰がこの形で伝説となったものであろうか。(はあとぴあ2002年12月号)

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お菊稲荷

 上野国北甘楽郡(群馬県甘楽町)の東部に小幡城と呼ぶ小城があった。文録元年、ここの領主は松平下総守忠明で、その家老に山田某がいた。その山田家にお菊という16歳の小間使の娘がいて、菊の花の様な気品のある誠に愛らしい小娘であったという。山田家老の御側の御用を何くれとなくまめまめしく仕えている内に、ご家老のお気に召し、何時かお妾様となったのである。しかし面白くないのは今までご家老のお気に入りだった妾たち。嫉妬の炎をもやして一計を案じ、ある日のこと縫針をご家老の召上る味噌汁の中に落して、そしらぬ顔をしていた。箸を取ったご家老は古い縫針が出て来ると激怒し、これは何者の仕業であるかと、詮議すると召使は得たりとばかりに「これはお菊の仕業に相違御座いませぬ」と讒言。日頃の可愛さは一転して憎しみと変わり、これは背後に謀略のあることならん、お菊に白状さすべしとして小幡某、宮崎某の側近のものを呼び出し自白を迫ったが、お菊は無実を主張。しぶとい女だと、2人はお菊を素裸にして大長持に投げ込んだ。

 この大長持には、家来に命じて集めさせた虫類がいっぱい入れてあった。蛇.、まむし、百足など数限りなくいるのである。この拷問にも白状せぬかと小幡、宮崎の両人は詰め寄ったがお菊は知らないことなので自白のしょうがない。お菊は末代まで祟ると言い残し、絶命する。その死相の恐ろしさは二目と見る者はなかったという。
 その後、家老山田家にはお菊の亡霊がつきまとい、吉事があれば泣き声が聞こえ、凶事があれば笑い声が聞こえる。山田家では恐れて草花の菊は勿論、紋様に至るまで菊と名のつくものは避けて用いず、お菊の間と言う仏間をつくってお菊の霊を祀った。一方、小幡と宮崎の両家も維新まで松平藩中にあり、小幡伊佐衛門という侍の屋敷は、忍藩藩儒芳川波山の屋敷の前(今の城西地区)にあってお菊稲荷が祀ってあった。その稲荷に朝夕礼拝を欠かさぬとのことで、忍(行田)にお菊稲荷の恐ろしさを語り伝わることになったようだ。小幡家では何か不幸のある前には必ず知らせがあって、誰も入らぬ座敷に菊の葉が散っていたりするという。上州小幡にも古文書があって、忍のものと全く同一の伝えである。芝居や講談で名高い播州皿屋敷のお菊はこれがモデルであるとのこと。播州というのは山田・小幡の主君、松平忠明が姫路18万石になったからである(はあとぴあ2003年1月号)

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剣神社

 祭神は日本武尊と草薙剣である。亨保21年(1736)に修築したとあるから、それ以前からあったことは明らかであるが、いつごろの創立かわからない。宝歴八年に現在の社殿を造営している。その他の記録はなにもない。
 口伝えに日本武尊が東征のとき、たまたま当地を通られ、宝剣を杖としてしばらくこの地で休まれた。そこでその後に尊と宝剣をお祀り申し上げたという。しかし、この付近一帯には剣神社が多い。彌勒村、斎條村、中江袋村など。
 日本武尊の伝説をたどると、蝦夷を平げ、日高三国から常陸を経て甲斐に入り、酒折の宮に着かれたという。伝説地理をたどると、筑波から持田を過ぎ、小鹿野町を経て、甲斐の酒折の宮にいかれたようになるが、これまでの歴史としては、上総から陸奥に出られ、常陸を経て甲斐の酒折の宮に着かれたことになっている。大昔のこと、どちらが正しいか定かでない。(はあとぴあ2003年2月号)

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しなび山のしなび竹

 昔々、弘法大師が諸国をめぐられ、衆生を済度されたことがあった。武州若小玉村にこられたときのこと、暑い日盛りを砂ぼこりを浴びながら、とぼとぼと大師はいなか道を歩んでいかれた。
 ある家に立ち寄られて、「杖にしたいから一本竹を恵んでくれ」といわれた。農夫の与八の家であった。ところがこの与八、すこぶるけちん坊であった。よせばよいのに「この山の竹はみんなしなびていて杖にはなりません」といって、ていよく断ってしまった。ふしぎなことに与八の竹山の竹は、その後みんなしなびて生えてきたという。
 弘法大師は、しかたなく同じ村の千蔵という農家にいって竹を所望した。千蔵は心よく手ごろの竹を切って杖にして差し上げたという。大師は大喜びされて、懐中からふくさを出し、一首の和歌を書いてくださった。「忍名所図絵」の著者は、そのふくさを見たいと思って、その家の主人にたのんだが、「今はもうふくさが朽ち果ててしまって、文字も見えないから」といって見せてくれなかったと書いている。昔々、弘法大師のころのふくさである。

 ところで、このしなび竹のあるところは「忍名所図絵」の著者が細かに記入している。「若小玉村に入って一町ばかりの所に一つの塚があり、青石塔婆がある。この塚の中腹に竹薮があり、それがしなび竹である。竹は真竹で、肉に厚い薄いがあり、太いものは七.八寸を上回る。花器にすればおもしろい」と書いている。この種の竹は東京文京区小石川の植物園にもあり、皺竹という珍種である。(はあとぴあ2003年2月号)

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深夜の早駕籠

慶応四年(1868年)114日の寒空は、夕方から大雪になった。忍沼の上にそびえる忍城の三重櫓も、まっ白だ。鐘掛松の枝は綿帽子をかむって折れんばかりにたれている。

 二十に近い忍城の各御門は、雪の中に、堅く閉ざされ、町人の町、行田も、宵のうちから雨戸がしまり、夜のとばりにつつまれていった。

 雪はなおもシンシンと降り続いている…。この静けさが、犬の激しい鳴き声で破られた。亥の刻(午後9時〜11時)怯えて吠える犬どもの遠ぼえの中に、重々しいかけ声が、忍城に向かって、進んでくる。エッサ、オッサ、エッサ、オッサ…この重々しい、かけ声で、ぴたり閉っていた八軒口(新町と天満の間)の御門が、まず、さっと開いた。つぎに大手門…かけ声は、二の丸の方へ飛んでいく。

 ゴーン ゴーン.ゴーン。
非常を知らせる三点鐘が長い間、乱打された。

「すわ、大事件だ」
屋敷の侍たちは、慌てて服装を整え、それぞれの家を飛びだし、自分の持ち場へ、雪をけって走っていく。

 かけながら、侍たちは、話しあった。「どうしたのだ、この早鐘は」「京都から、早駕篭らしいぞ」「殿さまからか」「いよいよ戦いか」

 侍たちが、話しあうように、この正月七日に、京都を出発した早駕篭が、日に夜をついで、今、到着したのだった。

 忍藩主の松平忠誠(ただざね)は、徳川幕府の御三家につぐ、主要な親藩(親戚の藩)だった。だから、京都の二条城で、将軍を囲んで、重大な御前会議を毎日のように開いていた。しかし、大勢は決していた。京都は、官軍たる薩長軍のため取り囲まれつつある。そこで藩主は、一刻も早く忍城に帰城して藩主の身のふり方を考えなくてはならない。天下の大勢には抗しがたい。無用な戦いをして、いたずらに、尊い部下を損耗させてはならないと考えていた。

 そして一月七日、藩主は、忍城に早駕篭を飛ばす。早駕篭に乗った若侍の胸には『王政復古は、すでに決定的事実となった。殿は、一月七日、家来数人とともに陸路を避けるために、まず、親藩の紀州(和歌山)へおち、海路を江戸にと出る』と記された忠誠の御文が衣類に縫いつけられていた。

 駕篭は普通、二人で担ぐものだが、早駕篭は、前に綱をつけて二人で担いでひっぱり、駕篭ほ四人で担ぎ、また各宿場毎に、駕篭かきが交替し、昼夜をついで、ひた走りに走るのだ。

 嘉永六年(1853年)、浦賀に来航して国書を奉呈したアメリカのぺリーは、さらに翌年来航して日本に開港を迫った。ここに日本三百年の鎖国の夢は、決定的に揺り起こされた。日本は上を下への、大混乱となり、これをきっかけとして、徳川三百年の封建制は覆り、日本は「開国佐幕諭」と「尊皇撰夷論」が、相対立して、まっ二つに割れたのはご存知の通りであろう。

 当時の人々は、顔を見あわせ、「日本はどうなるのだろう」と、深刻な顔をしたが、まだ、足もとから鳥が飛び立つような混乱は感じられなかった。

 忍藩の人々も、教百キロ離れている京都の様子は判らないが、とにかく天下が割れるような大事件が起きていることだけは知っていたので、どんな世の中になるのか不安ではあったが、何事もなく翌慶応四年(1868年)の正月が迎えられた。人々はやれやれといった気持で、七日の日には松かざりをとって、今年の無事を祈っていた。

 忍藩では、正月に「ドンビキ」というのをして遊ぶのだが、これは忍藩独特の正月遊びである。一メートル位に切った細引を十教本つくり、その中のひとつに、橙(だいだい)をくくりつけておき、家の人たちや、友だち、親戚などの集まって大ぜいの人々が、その細引を一本ずつひき、橙を引いた人が褒美をもらう遊びで、今でいうくじ引きのようなものか。いつごろからあったかわからないが、武士の家も、町人の家でも正月の楽しみの一つだった。そのドンビキの細引の紐を、来年のお正月にと、大切にしまったばかりのところに早駕篭が着いたのだ。

 浦賀へ来たぺリーの黒船が、「日本の維新」の扉を叩いたのならば、深夜の早駕篭は「忍の維新」の扉を叩いたといえようか。(はあとぴあ2003年4月号)

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忍城ものがたり @行田氏の館

○忍と行田
 忍(オシ)、現在の行田が城下町となったのは徳川時代に入ってからか、その少し前からといいます。忍と行田の地名はどちらが先か、その起源を尋ねると忍は磯辺(オシベ)の転化とか、鴛(オシドリ)がすんでいたからであるといわれます。鎌倉時代の東鑑(アズマカガミ)という本に忍五郎、鴛三郎が活躍していることが出ているから、その当時から用いられていたといいます。そして
1050年頃、忍氏がこの地域を開拓し、「忍荘」として交通の要路となりました。仁安2年(1167年)には藤原秀衡が下忍に薬師堂(現在の遍照院)を建てたといわれます。

○行田氏館 

 その頃成田助成が、内行田に館を作り、今の元町(忍書房近辺)を行田本宿といいました。そして1221年承久の変に宇治川で須賀弥太郎、行田兵衛尉、忍四郎らが戦死した事が東鑑に出ています。行田は成田氏がいたから行田となったという説がありますが、成田親泰が忍大烝の館を攻め、忍の地に入ったのは延徳元年(1489年)ですから、成田氏から行田となったのではなく、行田は「業田(ナリタ)」からで、沼湿地を田とした成田の説のカが正しいでしょう。

○内行田(行田本宿)
 ですから行田の発生は今の内行田のあたりの湿地を田(業田)とし、そこに行田兵衛尉が館を作り、行田本宿といったのがはじまりで、下忍遍照院のあたりに忍氏がいたと思われる。 

○下町(しもまち)
 しかし、それ以前、今から千年余前の長徳年間に、下町の愛宕神社が建てられ、大長寺近辺まで舟が入って来られるようになると、
1413年(応永20年)には盛大に市場が立ち、行田氏の館の内であった内行田に対して、「下町」と言われました。下町から八幡町、大手町を通り内行田に行く道に、八軒町(今の天満と新町の境に八軒橋がある)があり、八軒町を広くして新町が出来たのが1500年頃で、今の本町(仲町)が出来たのはその後で、特に本町丁字路(武蔵野銀行の所)が出来たのは1800年頃、阿部豊後守時代でといわれます。

○忍城築城
 成田氏十五代親泰が、今のNTTのところにあったと思われる行田氏の館(忍大烝)を焼き、翌年の延徳
2年(1490年)家臣の新曽部卓斎を相手として水路、新田開発、そして忍の沼湿地の地形等に秘策をねって築城に着手する。成田の一族、別府、玉井、奈良の三家、および久下、吉見、中条の各家も応援に来て、一年余りにして忍城を築城した。はじめは『亀城』といい、後に忍城と改めた。
(はあとぴあ2003年5月号)

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忍城ものがたり A成田氏の忍城

○成田親泰の築城
 忍城、別名「亀城」は
1490年頃、成田氏15代親泰が完成したらしい。 そして関東の七名城に数えられた。唐沢山、金山、太田山、忍、宇都宮、川越、厭橋(うまやばし、前橋)がそれであり、戦国乱世の関東の中心部の一大勢力を持っていた

○成田氏
 そもそも成田氏の祖は遠く藤原鎌足で、
1030年頃、有名な三蹟(さんせき)といわれ(小野道風、藤原佐理)藤原行成の二男忠基が武蔵守となり、崎西郡(きさいこおり)に住居した。崎西とは今の北埼玉郡騎西町ではないかという。妻沼の聖天様は成田氏の四代道宗(幡羅四郎)が信仰したといわれ、その館は幡羅(はたら)郡福川の辺にあったらしい。その子五代助高が、今の熊谷市上之に館を造り『成田太夫』と名のり成田氏となった。その子に別府次郎行隆、奈良三郎高長、玉井四郎助実が居る。源頼義が奥州安倍貞任(あべのさだとう)追討の時(1062年)成田助高は同等の大将として対面する勢力であった。 別府次郎、奈良三郎、玉井四郎と6代成田太郎助広を成田の四家という。 源平の戦世には源氏の旗頭となり、宇治川に奮戦し源頼朝に加わり、後醍醐天皇隠岐島に流れた時、供奉した成田助行がいる。12代家時は1411年、今の熊谷市上之に龍淵寺を造り、成田四家の本家として一大勢力を持っていた。
 13代顕時は上杉憲実に従い戦功をたて、下総守(しもふさのかみ)となった(不思議にも松平家も下総守である)そして更に戦功を立て、関東管領足利政知(堀越公方)より、越中富山城を貰い、富山の光巌寺ほ龍淵寺旗雲和尚の開山、成田顕泰の開基である。又顕時は1480年、真言僧通伝に長野の長久寺を創建させ、入道隠居し「清岳」と名乗り、全国行脚に旅立ち、善光寺、新潟、秋田、青森、平泉、松島、鹿島神社と廻り、千葉勝山市の里見義豊の処で62歳で病死した。そして15代親泰が1489年一族忍大烝を滅し、1491年忍城を築城して、成田から忍城へ入居した。


 忍の地の高低をよく調べ、掘と沼をめぐらし、大沼尻の樋と、谷郷春日神社裏の大樋と開閉、瞬時に忍沼の水は乾掘(からほり)となるようになっていた。大沼尻とは今、畠山の松で知られる「船つなぎ松」の処にあった樋で、近年まで「沼干(ぬまひ)」という春を告げる行事があって、「沼干たのしやヤチヨマカセ」の行田音頭の歌の様に、干上った忍沼に鯉鮒のつかみ取りの出来たのも忘れられてしまった。

 将軍足利義政の弟政知が伊豆掘越にあって、古河公方政氏と対立し、堀越御所の柱石太田道灌が55歳で、1486年に殺され、堀越公方政知は先妻の子(茶々丸)に殺され、今川氏の客将伊勢氏長は、政知の仇と茶々丸を殺し、堀越御所は亡びた。伊勢氏長こそ、戦国悪役のチャンピオン北条早雲である。強奪の名手早雲は、関東管領上杉の地を奪い、関八州に覇をなした。成田氏は管領の旧恩を忘れず、上杉氏の旗下に一層の力をなしていた。

 1553年上杉謙信は三国峠を越え、上州平井城を攻め落し、忍城をかこむも、沼掘多く対陣のまま援軍あるを聞き、引き返した。当時関東の大勢は北条氏にあり、成田氏も北条氏の旗下に入った。1559年謙信は再び忍城を攻め、丸基山に陣し、策を廻らしたが、望遠する忍城は堅固なので、長野、下忍、渡柳、持田の民家を焼き、和睦をせまり、遂に謙信の門に下った。
 戦乱のあけくれは細かく書く紙面もないが、成田氏代々は仏門に帰依し、成田顕忠、清善斎を開基として、その館、平田殿を寺とし、平田山清善寺創建(
1534年)下忍遍照院再建、持田常慶院八幡社勧請、持田清岩寺、泰蔵寺、正覚寺成就院等成田氏の創建、或いは助力の寺院が多い。又連歌に長じ、谷郷春日神社で連歌の会を催している(1587年)。その財力と文化程度は高いものであった。
(はあとぴあ2003年6月号)

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忍城ものがたり B甲斐姫と忍城

○甲斐姫 誕生
 天正元年(
1573)忍城主として家督を継いだ成田氏長は、ぐんぐんと勢力を伸ばし信望、実力共に、世に名を覇す程になっておりました。そして上州太田金山城主だった横瀬成繁は、これに目をつけ我が娘をぜひ氏長に娶せたいと考え、忍城に娘を塚がせました。横顧は、あわよくば我れが覇権をと狙っていたのであります。こんな政略結婚ではありましたが、氏長は妻となった横顧の娘を愛し忍城で仲の良い暮らしを始め、二人の間に一人の女の子を誕生させます。この子こそが数奇の生涯を送ったと言われる『甲斐姫』であったのです。

○母との別れ
 しかし、甲斐姫二才の時、氏長と横瀬の問に互いに意にそぐわない争いが起きました。不満の募る横瀬は「それでは氏長、我が娘を返せ」と言い出し、氏長はなすすべもなく愛する妻と別れざるを得なくなったのです。妻も忍城から身を引くことを残念がり、氏長にも愛娘甲斐姫にも別れを告げなくてはならないことに心痛めていました。
 そしていよいよ太田金山城から迎えの籠がやって来た日、氏長は幼い甲斐姫を抱きながら妻を見送りました。忍城の裏門を出た妻は一つ日の橋を渡りかけた時に別れを告げ、二つ日の橋を渡りかけた時にふと振り返って涙をはらりと流したことから、この二つの橋は「縁切橋」「涙橋」と言われるようになり、今に至るまで残されています。こうして甲斐姫は二才にして実母と別れることになったのでした。

 その後氏長は後妻を得、さらに二人の女の子も授かりました。甲斐姫はこの妹達と共に城の中で武道に励み、磨きをかけ、幾く年か経つにつれ長刀の名人だと言われるようになりました。また美人で、体も当時の女性としては、はるかに大きく心も大人びていたので、城内の武士たちは「何の間違いで姫に生まれたのか。男子なら一代の栄華を極める成田家の家宝なのに…」と口をそろえて話していたのであります。

○秀吉の関東征伐
 天正
17年(1589)天下統一の野望に燃え、九州の島津、四国の長宗我部を軍門に下らせた豊臣秀吉に対し、小田原の北条氏や奥州の伊達氏は、秀吉の度重なる交渉にも応ずることなく長期の抗戦の体制を整えようとしていました。そしてついに翌年、秀吉は大軍を率いて関東・奥羽征伐に東海道・中仙道に兵を進め、水軍もまた小田原へ向かう事になるのです。

 天正18年(1590)、二月上句、氏長に小田原の北条氏からの一通の手紙が使者により届きました。「勅令と申して秀吉は我が一族を倒そうと関東に下る由、氏長殿、小田原を守るため軍を引き連れ着陣下され、前田、上杉は北方より(信州方面から)乱入の恐れがある故、忍域の守りも固めるように」と書かれてありました。「氏長、しかと伝言奉ったと伝えてくれ」と使者に申し伝え、小田原へ援軍を送るための準備を始めました。また北条氏は関東一円の城へも小田原への援軍を要請し、力を合わせて豊臣軍の北方進入を阻止しようとしました。氏長は豊臣軍が小田原から攻め上がってくると、関東一円が軍勢によって罪もない多くの人々が戦火に巻き込まれてしまうことを懸念し、自らが弟泰親と共に城内の半分の戦力にあたる350騎を引き連れ小田原に向かう決心をしました。
 出陣の用意が整うと氏長は妻と甲斐姫を呼び「女といえども男子の気概をもって城を守れよ。とくに言い置きたいのは一糸乱れず城を固め離反する者を出さぬようにすることだ」と言い伝えました。そして甲斐
姫にほ「軍事に明るく武道も達者なのはこの父がいちばんよく知っているが、無謀な事はやめよ。馬にまたがり、とりこになってその身を捕らわれれば成田一門の恥となるぞ」と一言を言い残し、こうして氏長率いる軍勢は妻と娘を残し、遠く小田原城へ向かっていきました。その後おこる運命を知らずに・・・。
(はあとぴあ2003年7月号)

甲斐姫と忍城を題材にした小説
  風野真知雄著『水の城』

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忍城ものがたり C忍城水攻め

○石田三成 出陣!
 父・成田氏長が小田原城で籠城中の留守の間、城を守ることになった甲斐姫。城に残されたのは
300騎ほどの勢力と婦人と老人と子供ばかりであり、不安の募る毎日となっていました。もし父親やおじが死んだ知らせが入り、豊臣の軍勢が城まで入り火を放たれたなら自害する覚悟さえ決めていたのであります。この時の甲斐姫わずか18才。

18年5月のこと小田原城は重囲のうちにあってなお頑強に戦っていましたが、豊臣方の軍将石田三成率いる三万の軍は破竹の勢いで松山城・岩槻城・鉢形城を攻め落としてしまい館林城へと向いました。館林城には多くの留守を守っていた兵と上野の国の八つの城の兵が集結し、合わせて六千騎以上も立てこもっていたのですが、しかし、いざ戦いとなると寄り集まった兵力であったためか決戦の意志もなくわずか三日間であえなく敗れ降参。開城してしまいます。そして6月1日には、意気さらに上がる石田三成軍は「次は忍城だ!」と成田の領内に入り込み城の周りをたちまち包囲してしまいました。

○忍城 落城せず!
「館林城で三日である。あっても五百騎と聞いている忍城なら半日もひと揉すれば落とせるぞ」と簡単に考え、軍勢は皿尾口・長野口・佐間口・下忍口ヘと分かれて攻めて行きました。ところが沼地に浮いた形の忍城までは、いくつもの橋を渡らなくてはならず多くの軍勢をもっても攻めずらい地形で、しかも戦いに備えて準備していた甲斐姫率いる忍城軍は結束力が堅く、石田三成軍は激しい防戦に攻めては叩かれの繰り返しで多大な損害をこうむって敗退するばかり。簡単に落とせると思っていた城は実に鉄壁の城だったのです。「あなどりすぎた。もう一度気合を入れて攻めろ。それ!」しかし何度攻めても沼に落ちる者あり、城壁に這い上がれば切り落とされる者ありで同じことの繰り返し。あまりにも予想とかけ離れた戦いに幾多の戦いをも経験し討ち勝ってきた石田三成たる者も頭をかかえてしまいました。

○決壊!石田堤
 三成はひとり丸墓山に登り、まる一日沈思しながら遠くに見える忍城を眺めていました。
「この地は湿地で沼が多く、雨が降れば水に浸る土地だと聞いている。水…」見下ろす忍城は沼の中に浮かんで見える。「この沼にさらに水を引いてしまえば城内の橋は壊れて城はぽつんと浮き島となり兵糧を運ぶ道もなくなる。

日を待たずして場内の馬は飢えて暴れ、人共々降参してくるに違いない。水攻めだ!」
 三成は秀吉が備中高松城・紀州太田城を攻め滅ぼした戦法を思い起こしました。そして、さっそくひそかに側近の兵を連れ土地の高低を偵察し、近在に住んでいた工商農夫に米と銭を差し出し人を集め、丸墓山を中心に南は堤根から下忍・肥塚・棚田・久下の東竹院まで、北は東小付近から長久寺西側・白川戸・西明寺までの七里(
28km)に及ぶ半円形の堤をわずか7日問で作り、利根川と荒川から水を引き入れたのです。この水は忍城下へとながれていき、城の周りに満ちはじめ、三成軍は堤の上で手を叩いて喜びました。
 しかし、忍城は土地の高低を考えて築かれたことから板一枚も水に浸りませんでした。むしろ水で敵が入ってこれないので、忍城軍は舟遊びをしたり、酒盛りをして三成たちに余裕のあるところを見せつけるのでありました。三成は「忍城は浮き城か」と、もどかしげに嘆きました。しかも折も折、城内で鎮守の大明神に甲斐姫が祈ると、空はにわかに暗くなり風雨は嵐のごとく吹き荒れ、堤の中の水も三尺(
90cm)も増えて、ついに堤が決壊したのであります。そして堤の外の三成軍は、本陣もろとも流されてしまったのであります。

25日、浅野長政率いる軍が忍城に到着しました。浅野に先を越されては手柄がついえると、三成も水攻め失敗にもめげず軍を立て直し忍城に攻め入り、また、浅野軍は長野口よりどっと押し寄せ、三成軍は下忍口より再戦を臨みました。多勢の軍勢の攻撃に忍城軍は一進一退の攻防を繰り広げましたが、苦戦を知った氏長の妻は「この城、敵に渡してなるものか」と自ら出陣の支度をしたのであります。これを見た甲斐姫は「母上殿は城に留まって下さい。わたくしが敵に立ち向かいます。今日の出陣のために日夜武道に励んでまいりました。」と母をおしとどめ小桜威しの鎧をまとい大手門へと向かいました。甲斐姫の武勇伝が今、幕を上げようとしています。
(はあとぴあ2003年8月号)

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忍城ものがたり D忍城開城

○甲斐姫武勇伝
 小桜威しの鎧をまとい、長刀をもって本丸を出た甲斐姫、すでに長野口を破り大手門に向かっていた浅野長政の軍隊とばったり出くわします。そこで甲斐姫、開口一番「われこそは成田氏長の娘、甲斐と申す」とリンとした声音で名乗りを上げると、目の前の敵将をバッタバッタと切り討ち込んでいく。雪のような白馬に跨り、葉牡丹のような美しき女武将の武勇に、さすがの浅野軍も恐れをなし、城外へ後退してしまうほど。この活躍により忍城方の多くの武将が勇気づけられました。一方、長期化してきた戦いに、忍城成田を慕っていた多くの領民たちは、自らの糧までもこっそり城の中へ持ち込み、兵士たちを励ましたことで、忍城内の士気は益々盛んになりました。

○甲斐姫VS真田幸村
 このころ秀吉は、武州忍城は籠城の兵強く三成も攻めあぐねていると聞き、八王子に居た真田昌幸・幸村父子に、援軍を頼み忍城へ向かわせます。真田軍は、持田口より幸村自ら先陣をきって攻めこんできたので、忍方は幸村の率いる二百騎を迎え撃つために、再度甲斐姫が出陣しました。
 甲斐姫、相も変わらず、いでたちは華やかでしたが、戦いは生死をかけたものだったのであります。馬上から振り向きざまに撃った甲斐姫の矢が敵に命中し、背中を血で赤く染めた馬が、武将を落として走り回ったことから、忍城内から大歓声が上がりました。甲斐姫自ら率いた忍城軍に阻まれ、さすがの真田軍の陣営までもついに、持田口すら破り得ることができませんでした。

○秀吉の策略
 このころ、長期戦の続いていた小田原城では、豊臣軍が勝ち北条氏は降伏し、開城することになりました。小田原に出陣していた成田氏長は、忍城の悲惨な戦いの有様は知りませんでしたし、忍城の人達も、自陣の防御に手一杯で、小田原城のことなど全く分かりません。6月下旬、徳川家康が秀吉の本陣に、戦況を報告するために訪れると、秀吉は雑談の中に、忍城攻防戦について意見を求めました。
「家康殿、おぬしも聞いているであろうが石田三成・真田父子をしても未だ落城に至らない。何か良い手は、ないのかのう」家康はこれに答えて
「忍城は要害の地、沼・湿地に囲まれ、城も堅固。力づくで攻めて城が落ちても、多大な損害がでることは必須。さすれば氏長に近い友をもって忍城の開城を策す以外にないでしょう」と答えました。秀吉も「もっとも」と答え、氏長は連歌の友として、山中長俊と親交厚いと聞き、さっそく山中長俊を本陣に呼び付けた秀吉はこれを策したのであります。山中は忍者を使い、氏長に密書を送り、氏長も時を感じ、弟泰親と話し合い、忍城の開城について山中に書状を、託したのであります。

○忍城、開城
 暑い暑い夏の日が、沈みかかった七月のある日突然、氏長の妻あてに、氏長直筆の一通の書状が忍城に届きました。
『連歌の友である山城守山中長俊の執り成しで秀吉と和を結び、その軍門に下った。そして忍も開城するようにと言い伝えておく』と。
開城の条件は「城の将兵にはとがめなし。私財もそのまま退城して良く、また領民たちは戦前どおり、居所財物を安堵させる」と開城の条件は例のない寛大なものでした。
 このようにして忍城の人達は、
30余日もの長く続いた戦いに終わりを告げ、開城することになったのであります。
 忍城は幾多の豊臣軍の猛攻には、決死の覚悟で持ちこたえましたが、豊臣秀吉の天下取りへの野望に負けたのでした。総勢三万騎もの敵軍にわずか三百騎ほどで持ちこたえた忍城はなんと百騎に対し、一騎の割合で城を守り抜いてしまったのです。
 711日、城開け渡しの日、甲斐姫も氏長の妻も幼い妹たちも、美しい着物を来て馬に乗り、裏門から上之方面へ落ちて行きました。こんな忍城の戦いは、多くの合戦記の中でも異例であると言われています。
(はあとぴあ2003年9月号)

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忍城ものがたり E甲斐姫その後

○会津若松へ…
 忍城を明渡し上之に向かった甲斐姫率いる成田一門は、荒川で小田原城に出陣していた父・氏長と弟・泰親と再開します。互いの無事を確かめ合った後、氏長も甲斐姫に「よくぞ守りぬいた、さすがにわしの娘じゃ、大儀であった。父も嬉しいぞ」とねぎらいました。成田一族は豊臣秀吉の命令により、蒲生氏郷の元へあずけられることになっていました。これにより、成田氏は多くの家臣、領民と別れ、少数の家臣と共に利根川を渡って降り返り、忍城の森を見て、一族皆涙し、遠く会津へ旅立って行ったのであります。

○浜田兄弟の謀略
 会津若松城へ着くと氏郷は、氏長に若松城の出城福井城
1万石を与え、手厚く成田一族を、擁護したのであります。氏郷は、家臣が少ない氏長に部下の浜田十兵衛と弟の十左衛門の兄弟を従わせ、氏長も忠実に働く浜田兄弟を喜んでいたのでありますが、天正1811月、大崎城に一揆が伊達政宗の計略で起きると、蒲生氏郷は出陣し鎮圧に向かいます。氏郷は「国替え間もない私に、会津の領民は、不安な気持ちを持っているので、氏長殿は若松城に異変があれば、すぐに駆けつけてくだされ」とたのみます。
 幾日かたつと、若松城から使者が来て「伊達政宗が、大群で若松城へ押し寄せて来た」と告げました。氏長は、すぐに若松城へ弟の泰親及び成田一門を、連れ駆けつけたのですが、若松城には、何も異変がなかったのであります。狐につままれたのか、伊達の策略かと氏長は考えるのでありましたが、これが浜田兄弟の計略だったのであります。浜田兄弟は手勢を引いて、突如、本丸に乱入したのです。これに、成田一族おおいに驚いたのですが、ほとんどの家臣が若松城へ出陣していたのでどうすることも出来ず、氏長の正室も、病気で寝込んでいた家臣を背負って逃げようとしたが、浜田兄弟に見つかり、背負った家臣共々切られてしまいました。

○甲斐姫の復讐
 城内の異変に気づいた甲斐姫。賊の来襲かと、すぐさま甲冑をまとい長刀を持って、母上の寝所へ向かいます。しかしそこで見たのは無残にも切られ、息絶えていた母の姿。そこへ間髪いれず逆賊が踏み込んできます。悲しむ間もなく甲斐姫は長刀をふり、目前に現れる逆賊共を、次々に切り倒して馬にて城外へ脱出しようと試みました。これを見つけた浜田兄弟、成田氏の娘逃がさじと、刀を振って追いかけてきました。甲斐姫は、ここにきて「さては、逆賊は浜田兄弟か!」と悟ると、怒りは頂点に達し、馬を返して、逆に浜田兄弟へ突進してくるのであります。
 
「浜田、なんじらが反乱の首謀者か、よくも母上を!」と言うが早いか、弟の十左衛門を一刀両断に切り捨てると、十佐衛門は断末魔を叫びつつ血飛沫あげて倒れました。
  これに、恐れをなした兄の浜田十兵衛は、背を向けて逃げ出します。「待て浜田!勝負しろ!」と逃げ回る浜田を追い掛けているうちに、浜田方の仲間が駆けつけるのを見て、甲斐姫はやむえなしと、城外へ脱出したのであります。
 福井城から、若松城の氏長のもとへ、「浜田兄弟の謀反であります」と知らせが届くと氏長は、若松城から急いで福井城に向かいます。その途中、まもなく落ち延びて来た甲斐姫と出会い、甲斐姫から愛妻の死を聞くと氏長は、「あわれであった…」と嘆くのでした。甲斐姫も「私が、付いていながら申しわけ御座いません。憎きは浜田兄弟なり、弟の十左衛門は、私が成敗いたしました。残るは、兄の十兵衛と野武士の残党であります」。
 甲斐姫と合流した成田一門は、すぐさま福井城へ駆けつけ奪回せんと、なだれの如く城内に侵入します。そのころ逆賊浜田と野武士らは、謀反の成功を祝い酒を酌み交わして油断している所でした。そこへ「氏長来襲」の声。これを聞いた浜田勢は上を下への大騒ぎ。復讐あらわにした成田勢に敵うわけなく一味はバタバタを切られていきます。首謀浜田は雑兵にまぎれて一目散に逃げようとするが、悪運つきたか甲斐姫に見つかります。「おのれ逆賊、わが母の仇!」と甲斐姫、浜田が刀を抜く前に稲妻の如き速さで浜田の首を切リ落しました。この武勇が、後日天下に、とどろくことになるのであります。天正
18年も、残り少ない雪の降る12月の頃のことでありました。
(はあとぴあ2003年10月号)

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忍城ものがたり F忍城、徳川家へ

○成田氏、烏山城主へ
浜田将監兄弟が加わった九戸(くのえ)氏の一揆を甲斐姫の奮戦により平定した成田一族。その武功によりやがて徳川家康に召しだされて天正
19年(1591)烏山城(栃木県烏山町)2万石の城主となります。その後、成田氏長は、秀吉の文禄の朝鮮出兵により釜山城の普請をした記録があり、烏山より京都に上洛し、さかんに連歌の会を催し、当代一流の文化人と交流。連歌三昧の生活を送ったあと、文禄4年(1595)永眠する。氏長の後は弟の泰親が継ぎ、さらに泰親の長男の重長、次男の泰之と城主は継がれ、大阪冬の陣でも活躍があったとされます。しかし泰之が急病でなくなると、子供がなく元和8年(1622)成田家はお家断絶となりました。

○甲斐姫は何処に…
さてそうなると我らのヒロイン甲斐姫が、その後どうなってしまったのか?と多くの会員の方が気になるところ。正史にはありませんが、下記のような伝説があります。…甲斐姫の美貌と武勇はやがて天下を平定した豊臣秀吉の耳に入ります。一説には石田三成が進言したという。これを聞いた女好きの秀吉、食指を動かし甲斐姫を側室とし、大阪城に迎え入れます。当時大阪城には淀殿を筆頭に十数人の側室がいたいわれます。甲斐姫は淀殿と仲がよく、やがて秀頼が生まれると、淀殿から守役を頼まれるほど、信頼を置かれます。

○甲斐姫伝説…天秀院
やがて秀頼は家康の孫、千姫と政略結婚。さらに側室との間に長男・国松丸が誕生。また別の側室から長女が生まれます。実はこの長女(つまり秀吉の孫娘)の母親は守役をしていた甲斐姫だといわれます。やがて史実のとおり大阪城は家康の攻撃をうけ落城。豊臣氏は滅亡するのですが、燃えさかる大阪城から甲斐姫は秀頼の子供2人をともない脱出に成功。しかし京都で捕われ国松丸は処刑されます。一方秀頼の長女は千姫の口添えがあり、処刑されることなく鎌倉の東慶寺に入寺させられました。東慶寺は後醍醐天皇の皇女も入寺した格式の高い寺。やがて秀頼の長女は剃髪し、二十世天秀尼になります。現在、東慶寺に眠る天秀尼の墓の横に寄り添うように建つ石塔がありますが、それこそが天秀尼とともに余生を送った甲斐姫の墓と伝えられています。

○松平家忠 入城
 さて話を忍城に戻しましょう。水攻めで開城した忍城に、家康は、戦いに痛んだ城を修復するため、天正
18年(15908月、深溝松平家の松平家忠を派遣させます。家忠が忍城にいたのは、1年7ケ月だけでしたが、『家忠日記』に忍城の修理の様子や城下町・行田宿での出来事などの記事が書かれています。『家忠日記』は天正5年から文禄3年まで長期間記された、戦国時代末期の貴重な記録として注目されています。日記を通して知られる家忠像は、華々しい戦闘ではなく、築城や城の修繕などの土木技術に優れた才能をもち、能や連歌を愛した文人肌の人でした。同じ連歌を通しての交際であったのか、前の忍城主・成田氏長との音信が頻繁に行われていたことが、日記を通して伺えます。その後、家忠は香取小見川城主となり忍城を去ります。そして慶長5年(1600)伏見城に鳥居元忠と共に居るところを、石田三成引き入る西軍の攻撃にあい、46歳で壮烈な戦死をとげました。先に忍城の水攻めで辛酸を舐めた三成が、忍城主だった家忠を滅するとは、何か因縁を感じえませんが、いずれにせよこの戦いが天下を分けた関が原の合戦の糸口となり、結果的に三成の首を六条河原で斬りおとすことに繋がりました。
家忠の子孫はその後、その代償として九州島原で6万5千石の大名になり、そのまま明治を迎えることになります。
(はあとぴあ2003年11月号)

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忍城ものがたり G江戸時代初期の忍城

○松平忠吉 入城
 下総国(千葉県)香取へ移封になった松平家忠に代って忍城主になったのは、家康の四男13歳の松平下野守忠吉でした。ときに天正20年(1592年)。忠吉は二代将軍秀忠と同じ母、西郷の局から生まれた、将軍の実弟になります。幼少だった忠吉に代り実際の政務は家老の小笠原吉次がみていました。やがて元服し井伊直政の娘と結婚。慶長三年(1598)には男子が誕生しましが数日で亡くなってしまいます。この子の墓と御守筒は城西の正覚寺(旧ダイエーのウラ)に残されて市指定文化財になっています。

○忠吉、御三家へ
 慶長5年(1600)関が原の合戦がおきると、石田三成らの西軍に対して、先手の総大将に任命されます。合戦では薩摩の島津隊と激戦になり、自らも負傷しますが、武勇を天下に示すことになりました。合戦後、戦功を認められ尾張(愛知県)の清洲城に57万石で移封。忍城に在籍していたのは8年9カ月間でした。その後清洲から名古屋城に移り、徳川御三家になりますが、忠吉は病気がちになり、慶長12年(1607)わずか28才で亡くなります。このとき四人の家臣が忠吉を追って殉死。これが話題となり以後江戸時代初期に殉死が流行するきっかけとなりました。
 忠吉が忍城にあった頃、龍淵寺(旧忍城主・成田氏の菩提寺)に禅話を聞き、深く感銘。仏心厚い忠吉は清洲に移封されると、清善寺(天満)の六世明嶺和尚を迎えて開山。長久寺(桜町)の四世重陬を招き開山。さらに正覚寺二世源道を招き開山させるなど、忍の寺院の系列を新領地清洲に建立します。

○忍城 城番代の時代へ
 慶長5年(1600)より寛永10年(1633)の31年間、忍城には城主がなく、城番代の時代が続きます。1600年〜天野彦八、1603〜菅沼大膳亮、1605年〜内藤正次、1606年〜石野新右衛門、1619年〜大河内久綱と、次々と代わりました。
 寛永3年(1626)、老中の酒井讃岐守忠勝が、深谷から移封されてきて一旦城主となりましたが、1年9カ月後、川越城主となり移ってしまい、忍城はまた城主不在になります。

○松平"智慧"伊豆 城主に
 酒井忠勝の後、大河内久綱が上代になります。久綱には長男・信綱がおり、後に三代将軍家光の小姓として、阿部忠秋と共に仕えていました。やがて叔父の松平正綱の養子となると大河内松平家として大名に。さらに38才で老中に昇進すると寛永10年(1633)父・久綱に代わって忍城主に入城するという、とんとん拍子の出世コースを歩みます。この大河内松平家は、三河(愛知)の吉田藩で明治を迎えますが、大河内政敏の代の昭和初期に60数社を傘下におく理研コンツエルンを築きます。

○島原の乱 鎮圧
 エリートコースまっしぐらの信綱に最大の事件がおきます。九州天草・島原でおきた農民とキリシタン信者による島原の乱です。鎮圧に手間取った幕府から「智慧伊豆」と言われた信綱に赴任の辞令が下ります。寛永15年(1698)信綱は、忍にいた多くの家臣とともに島原に向かい、2ケ月かかって鎮圧に成功。この功績により加増され、川越城に移封となります。信綱の墓がある新座市の平林寺には島原の乱で亡くなった敵味方両者を祀る供養塔があります。
  (はあとぴあ2003年12月号)

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忍城ものがたり H忍城と阿部忠秋

○阿部忠秋 入城
 寛永
16年(1639)松平信綱が島原の乱鎮圧の功績により加増され川越城に移ったのと入れ替わりに、阿部豊後守忠秋が下野国壬生城(栃木県)から忍城にやってきました。
 忠秋は旗本の長男として慶長7年(
1602)に生まれ、慶長15年、8歳の時、松平信綱とともに6歳の家光の小姓となります。
 そして家光の3代将軍就任に伴い、将軍直轄の親衛隊長ともいうべき小姓番頭に就任し一万石の大名へ。その後、大御所秀忠が死去し、家光が幕政の実権を握ると、その政権運営のために尽力することになります。

○家光六人衆
 家光は、自身の意志をより強く反映させるため、側近を政権の中枢にある地位に、積極的に任命していきます。寛永
11年、松平信綱・阿部忠秋・掘田正盛・三浦正次・太田資宗・阿部重次の六人の小姓組番頭が、家光より幕政の小事を相談、執行するよう命じられました。
 このメンバーは「六人衆」と呼ばれ、これにより家光側近層のグループが、形成されることになります。徳川の施政の礎は、松平信綱と阿部忠秋の二人の老中時代に固まったといわれるほどです。

○幕閣としての活躍
1651)徳川家光が死去し、11歳の家綱が将軍に就任しました。幼将軍を支えるべく忠秋は信綱とともに老中に留まり、政権運営にあたり、由井正雪の慶安事件や浪人問題、明暦の大火等に対処していきます。(→紺裾濃糸威二枚胴具足阿部忠秋所用の具足と伝えられる復古調の当世具足。藩主の御召具足に相応しい豪奢な作りだ)

○家光の傍へ葬られる
 永く徳川幕府太平の隆治を導いていった忠秋と信綱のゴールデンコンビ。しかし年齢には勝てず、寛文2年(1662)に相棒の信綱は死去。忠秋もその4年後には老衰の為、老中を辞し、忍城へ帰国します。そして5年後、養子の阿部正能に家督を譲り隠居。延宝三年(1675)74歳で亡くなります。
 遺体は火葬され、生前の家光に対する忠節を評価され、分骨された墓が家光の墓所である日光大猷院廟の側に葬られました。(←日光にある忠秋墓所)

○忍藩領の整備
 忠秋が忍拝領のときの領地は、忍城周辺と大里・足立郡五万石。8年後には1万石を加増され、6万石。さらに相模国御浦郡、武蔵国秩父郡、埼玉郡において2万石を加増され、8万石となります。
 忍領はその後、三代正武の時の元禄7年(1694)には10万石になります。忠秋以来、白河に移るまでの184年間、阿部家は忍城の改築や城下町の整備を行い、現在の行田の基礎がつくらていきました。(はあとぴあ2004年1月号)

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忍城ものがたり I三方領知替

○阿部氏、白河への転封
 文政6年(
1823)3月24日、忍の阿部正権、白河(福島県)の松平定永、桑名(三重県)の松平忠堯は、老中青山忠裕よりは登城の命令を受け、それぞれ所替えを申し渡される。この転封は「三方領知替え」といわれるもので、忍藩主阿部豊後守が白河へ、白河藩主の松平越中守が伊勢国桑名へ、桑名藩主松平下総守が、忍へと移動するものであった。

 背景には、白河の松平定永の父にして元老中首座、さらには、徳川吉宗の孫でもある松平定信の存在があると言われている。定信が国替えを希望したことを記す資料はないが、当時の人々の思いは、それを想像させるに十分であっただろう。

「住みなれし 忍をたちのき あべこべに お国がえとは ほんに白川」

「白川に ふるふんどしの役おとし こんど桑名で しめる長尺」

「蛤の 殻までおけと越中が おし桑名にも くれて下総」

・・・という狂歌が『続徳川実紀』にも載せられている。

 この転封は、阿部家と桑名藩主松平家にとっては、全く予想していなかったものであった。阿部家は、藩祖忠秋以来、184年もの問忍藩主であり、他の武蔵国譜代藩が転封を繰り返す中で、その地位を保ってきたし、松平家にしても正徳元年より、113年も桑名藩主にあったことから、もう動くことはないだろうと考えていた。だから転封が発令されると忍の藩内は、準備で大騒ぎとなる。

 まず、すぐに領内の年頁、林等の取調べが行なわれ、翌日には『屋敷内を荒らすな、平穏に暮らし、あらぬ行動をとらないよう』通達が出された。次に藩主名で転封の心構えについて指示が出され、さらに家臣の屋敷内の戸、障子、襖、畳まで、全てそのままにしておけ、門・櫓・塀に落書するな、掘にゴミを捨てるなといった通達まで出された。5月にはいると、白川へ運ぶ家財道具や武具類の運搬準備、家族の通行手形の準備等が、本格化していく。

○阿部氏 御家断絶の危機
 そんな騒ぎの中、藩の存在を左右する一大事が起きた。
藩主阿部正権が重体に陥ったのである。正権は16歳で子供がなく、このまま死去したら、世継不在で御家断絶になる可能性もある。そこで、阿部家は対応を協議。井伊直暉ら親類大名四名より、幕府の老中たちに宛てた、正権の領知返上と養子への相続願を提出した。勿論、目的は養子相続である。その後養子候補の選択が行なわれ、紀州藩主徳川治宝の弟松平頼興の子房丸を、養子と決定し幕府に届け出て許可を得た。房丸は、阿部正篤と改名し、8月27日に阿部家の江戸藩邸に入った。

○忍城、引渡し
 さて、引っ越しの準備はその後も進み、9月から阿部家の家臣が、白川へ向け順次出発していった。そして9月
25日には、白川城受取、28日には忍城引渡が、無事行なわれると、それを見届けたように10月6日、阿部正権は、江戸藩邸で死去し、阿部正篤が、家督を相続した。

 阿部家は、藩祖忠秋が家光に取り立てられ、老中として幕政を支えたことにより、譜代大名としての性格が方向づけられた。忍藩主就任も忠秋の存在によるものであり、関東譜代藩としての期待された役割を果たしてきたといえよう。そして新しい藩主を迎えた忍城は、幕末の激動期に突入していく。(はあとぴあ2004年2月号)

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白河市 小峰城(白川城)

  結城親朝が
1340年に小峰ケ岡に城を構えたのが始まり。江戸時代に初代藩主・丹羽長重が完成させた梯郭式の平城で、以後7家21代の大名が居城する。
1868年戊辰戦争で焼失するが、現在に至って忠実に復元されました。

忍城ものがたり J松平下総守の先祖

○先祖 奥平家
 三方領知替えにより桑名から忍にやってきた松平下総守忠堯。忍城はそのまま幕末の激動期を迎えるのですが、話を進める前に、この松平下総守家のことからはじめましょう。

 松平下総守の先祖は奥平家といって上野国甘楽郡(群馬県甘楽町)より発祥した豪族。14世紀には三河国作手(愛知県)に移ったと伝えられる。戦国時代の三河国は今川・織田・武田・松平(のちの徳川)の間での勢力争いの舞台となっていて、諸方の豪族達は、時勢に応じて各勢力に味方することで生き残りをかけていた。
 奥平家もはじめは今川家に従い、今川滅びて後は、武田家に属し、織田・徳川の勢力と戦ってきた。しかし
13代奥平信昌は、「信玄亡き後は、これからは織田・徳川家の天下になる」と察し、武田家を裏切り、徳川家に属した。これに応えた徳川家康も、武田家との対抗から奥平氏との関係を重視し、息女亀姫と信昌との婚約を約束する。これに激怒したのは武田家である。当時の当主は勝頼で、父・信玄が亡くなったとたん、態度が豹変した奥平・徳川に対し「あなどるなっ!」とばかりすぐに軍を発し、信昌がいる長篠城へ攻め込んだ。ときに天正3年(1575)5月。

○長篠城 籠城
 武田軍は
17000。それを迎え撃つ奥平軍は500。当然籠城戦となり、要害の長篠城はよくもちこたえたが、勝頼の闘志は凄まじく、攻撃は熾烈きまえ、城兵は本丸ひとつに押し込められてしまった。兵糧も乏しくなり、落城が目前に迫ってくると、城内は「降伏し武田に下れ」か「織田・徳川の援軍が来るまで戦おう」という2つの意見に分かれて会議が続く。城主信昌はそのとき若干21歳の若年、「なぜ武田を裏切ったのか」という重臣たちから強い非難を浴びる。
 「長篠城は三河・遠江(静岡県)の東海を守る重要な地点で、これを破られれば天下統一を掴みかけた織田信長は、背後から武田の攻めを受けなければならない。徳川・織田の援軍は必ず来る!」
と信昌は必死に家臣を説き伏せる。しかし今は周りをすっかり敵に囲まれ、アリ一匹外に這い出せぬありさま。果たして援軍はどこまで来ているのか、いや本当に援軍は向かっているのか、さっぱり分からない。城内は開城派と籠城派に分かれて今にも抗争がおきそうなところまで来ていた。信昌はついに会議の席で決死の任務を伝える。
 「誰か、この城から這い出ていけるものはいないか?そして岡崎の家康殿のもとへ向かい、援軍の様子を見てきてくれるものはいないか?」
ただの使者ではない。生きて帰れる可能性は1割以下だ。若い城主の問いに答える者はいない。永い沈黙の後、座がしらけきったそのとき、はるか片隅から声がした。
「それがしが承ろう…」

籠城戦に使われた奥平氏の血染めの陣太鼓
長篠城址史跡保存館)

○鳥居強右衛門
 声の主は鳥居強右衛門という。このとき
36歳であったが何の戦功もなく、身分は低かった。金槌頭でずんぐりとした体躯は奥平の家来の中でも精彩はなく、皆から「鈍牛」と言われていた。その強右衛門が決死の任務を引き受けると立ち上がったのを見て広間にいた朋輩たちは驚いた。「よせ、危ないぞ」と袖を引っ張る者もいるが、強右衛門にも考えがあった。

 主君、信昌が武田を裏切り徳川についたことに強右衛門も強く共鳴していたのである。「近く天下は必ずや織田・徳川のものになる」…しかし、家臣から責め立てられても己の信念を捨てようとしない若い主君を見て、強右衛門の胸に火がついた。
「自分が見てきて、殿の判断が正しかったことを証明してこよう!」

 強右衛門が立ち上がるのを見て信昌は驚きと感動の声をあげた。
「強右衛門、そちが受けてくれるか」
「はっ、この期に及び、尚も心を変えぬ殿を目のあたりにし、それがし決心つかまりました」
どんぐり眼の強右衛門の双眸が、きらりと光って信昌を射つけると、信昌も見返し、力強くうなずいた。その夜、強右衛門は主君の手紙を胸にし、農夫の姿に変装して城の厠から崖下の川に飛びこむと、川底をつたい武田方の警戒網の突破を目指していった。(はあとぴあ2004年3月号)

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長篠城址は豊川(寒狭川)と宇連川(三輪川)が合流する地点にある自然の要害だった。
現在は本丸の横をJR飯田線が走っている。

忍城ものがたりK 鳥居強右衛門

○織田・徳川の大軍団
 徳川の援軍は来るのか…長篠城の命運を確かめるべく、家康のいる岡崎へ一人向かう鳥居強右衛門。城を脱け出すと川に張られた鳴子を必死で掻い潜り、武田方の番所を避けつつ山道を急いだ。休むことなく一昼夜走り続け、ついに武田軍の包囲網の突破に成功する。そして岡崎へたどり着いた強右衛門は、目をみはる光景にでくわす。
「これは…っ」
 強右衛門は心臓がぎゅっと掴まれる衝撃を受けた。そこで目にしたのは、炎々たる篝火と地上にみちみちた軍兵だった。
「来ていた!織田の援軍が来ていた!若殿も俺も間違っていなかったのだ!」
強右衛門の双眸から涙がどっとあふれ流れた。
 このとき織田信長は、武田家を一気に根元からゆさぶりつけようと、家康のもとへ大軍をよこしていた。その数4万。しかも最新兵器の鉄砲を3千挺を用意していた。後に「長篠の合戦」で、無敵と言われた武田の騎馬隊を壊滅させる大軍団を目のあたりにし、強右衛門は全身の血が騒ぐのを感じた。
「あの囲いを抜けてきたとは、骨の太いヤツ。ようやった」
 奥平信昌の手紙を家康に渡し、武田軍の状況を報告した強右衛門は信長に拝謁を許され声をかけられた。
「織田・徳川の連合軍は、明朝には、この岡崎を発し、ただちに長篠へ向かう予定だ。信昌はよく耐えたものだ」
 それを聞いて強右衛門は、まだ城内で立て篭もっている主君信昌や仲間を思い出した。
 (長篠の皆は、援軍到着の有無に迷い、気力も衰えている。一刻も早くこの援軍のことを知らせねば…)
「それがし、これより長篠へ戻りまする」

○強右衛門、無残
強右衛門は周囲の反対を押し切り、疲れをとらぬまま立ち上がり長篠へ向かって走り出した。早くこのことを殿に知らせたいという気持ちと、先程の脱出の成功が強右衛門に自信を持たせていた。
 しかし織田・徳川の動きを察した武田方もいっそう警戒を厳しくしていた。山道を抜けたところで、強右衛門は運悪く武田の足軽たちに取り押えられてしまう。そのまま、強右衛門は武田本営に連行され、武田勝頼に引見させられた。
「そのほう、我が警戒網を破るとは不敵なやつ。長篠城に籠もる奥平への見せしめに、磔刑にしてやろうず」

落合左平次背旗(鳥居強右衛門磔図)

 強右衛門は下帯一つの裸にされ、長篠城から対岸にある岸辺の磔刑柱に縛り立たされた。城塁には強右衛門に気がついた奥平の城兵がわらわらと集まり、こちらを伺っている。
「強右衛門、命惜しけば城に向かって『援軍は来ない、降伏しろ』と言え。承知すれば武田家中の名あるものにしてくりょう」
 胸ものとに槍を突き出され、勝頼から取引をもちだされると、強右衛門の気持ちが揺らいだ。
 (そうだ、俺には故郷に残してきた家族がある。ここで死ぬわけはいかない。たとえ嘘を言っても、聡明な殿だ、俺の心を察し、武田のたくらみを見破ってくれるはず…)
 そのとき、城の塁上に、黒の鎧に陣羽織をつけた奥平信昌が現れたのが遠目にもわかった。
(おお、若殿…)
 そのとたん強右衛門に強烈な衝動が走り、自然と言葉を叫んでしまった。
「若殿!織田・徳川の援軍はすでに岡崎を発し、こなたに進みござる。早まって城を明け渡したもうな。もう少しの辛抱でござる!」
「おのれ!」
 武田の士卒のもつ槍の穂先が、深々と強右衛門の胸下を貫くと、電光のような衝撃が脳裏に響いた。
(若殿!それがしも若殿も、間違ってはおりませなんだ。間違うては…)
薄れいく意識の中で、強右衛門は城塁の彼方で信昌が合唱するのを、見てとった。

 強右衛門の言葉で士気を盛り返した奥平勢に、武田勝頼は長篠城攻略をあきらめ、直後にやってきた織田徳川連合軍と設楽ケ原で激突。その後は史実のとおりである。鳥居強右衛門の子孫は代々奥平家(後の松平下総守)の家老となり、菩提寺は行田市城西 桃林寺にある。

(はあとぴあ2004年4月号)
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忍城ものがたりL 藩祖 松平忠明

○徳川家の譜代へ
 鳥居強右衛門の決死の手柄により長篠城を武田軍から死守した奥平信昌。その功績により家康から息女亀姫を妻に与えられ、三河新城(愛知県新城市)の地にて亀姫との間に信昌は三男一女をもうける。
 長男・家昌は奥平家を継ぎ、宇都宮→古河→山形→宇都宮→宮津→九州中津十万石と移り、維新を迎える。その家臣に有名な福沢諭吉がいた。二男家治は、群馬県小幡七千石の城主となるが、
14歳で夭折する。法名を桃林院といって、現在の行田市城西にある桃林寺が開山の寺である。三男忠政は美濃(岐阜)加納城主になるが35歳で亡くなる。
 天正
11年(1583)に生まれた四男忠明(ただあきら)は家康の孫ということで、家康の養子となり、松平姓を名のり、徳川の葵の紋をつけることを許された。そして兄の家治が亡くなった後の小幡城に入る。この忠明が、後に忍城主になる松平下総守(奥平松平家)の初祖となるのです。
 文武両道に秀でていた忠明はその後ぐんぐん徳川家から頭角を表していき、関が原の合戦で初陣を飾ると、小幡七千石から三河国作手一万七千石、慶長15年(1610)には25歳で伊勢亀山五万石となっていく。この転封は家康による豊臣包囲網形成の一環であった。忠明は家康から大量の鉄砲・大砲の火器を与えられ、家康の外孫として軍事的な要を担っていた。

○大阪夏の陣

 元和元年(1615)家康は豊臣家の息の根を止めようと謀り、大阪夏の陣を勃発させた。
全国の大名に集結を呼びかけ、松平忠明も各諸大名とともに伏見に集結する。徳川軍は伏見から直接大阪へ向かう河内方面隊と、一旦大和路を南下してから大阪に入る大和路隊の二手に分かれて出陣。両隊は道明寺(大阪城の東南
20キロ)で合流し、平野部に大阪軍を誘い出し野戦で一気に方をつける作戦だった。
 忠明は水野勝成・本多忠政・伊達政宗・松平忠輝とともに大和路隊に加わる。やがて未明に大阪城からでてきた後藤(又兵衛)基次隊と大和路隊が道明寺で激突した。後藤隊は真田幸村隊と合流するわけだったが濃霧のため到着が遅れ、単独で徳川軍を迎え撃った。激戦のうち又兵衛は伊達隊の流れ弾が当たって戦死したとなっているが、別の記録では松平忠明の家臣 山田十郎兵衛が一騎打ちの末倒したとある。その後大阪城は落城し、豊臣家が滅びたのは史実のとおりである。

○幕府の中核的大名へ 

 戦後、忠明は大坂に十万石を与えられ、大阪城主になる。
忠明は大坂の町の復興に乗り出し、町割りの再整備や道頓堀の完成など、大坂繁栄の基礎を築いていった(道頓堀の命名も忠明である)。 
 大阪市街の復興が一段落した元和5年(
1619)忠明は大和郡山12万石へ転封になる。大阪城は幕府直轄の城となり、城代がおかれることになった。尚、郡山時代の家臣に鍵屋の辻の仇討ちで有名な荒木又右衛門がいた。

 寛永16年(163918万石に加増されて播磨(兵庫)姫路藩主となる。三代将軍家光から西国探題として南蛮船が渡来したら、西国の大名を指揮するよう命じられていたという。その後、忠明は少将侍従の位となり、老中格となって幕閣にも加わるが、参勤交代の途中病にかかり、62歳で激動の生涯を閉じる。

 このように忠明は東海・西国という軍事的緊張を伴う重要拠点に配置されてきた。これは家康の外孫という一門に準ずる家柄を背景に、武将としての優れた器量と強力な軍事力を持つ忠明を配置することにより、幕府が当該地域の軍事力強化と安定を意図したものであろう。名君と言える忠明で始まる奥平松平家。しかしその後すぐにお家改易の危機に遭遇することになる

(はあとぴあ2004年5月号)
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忍城ものがたりM 白川騒動

○転封から転封へ

 松平忠明亡き後、松平下総守家の家督は長男忠弘が相続し、18万石のうち、15万石を忠弘、1万石を次男清道が相続した。しかし当時から、この忠弘の評判は決して良くなかった。元禄に書かれた史書には『忠弘、生得愚魯ニシテ、然モ、文武共に不学』とある。

 そのためか松平家は次々と要拠から外されていく。慶安元年(1648)西国の重要拠点姫路より山形へ。寛文八年(1668)宇都宮、そして天和元年(1681)白川(福島県)と続けて転封を命じられた。

○家臣団の対立

 忠弘には、清照という息子がいたが病弱なため、延宝八年(1680)松平忠尚を婿養子と迎えた。これが、御家騒動の発端となる。忠尚は、暗愚な当主・忠弘を押し退け藩政の実権を握ると、自分の子飼いの黒屋数馬を家老に取り立てる。新興勢力となった黒屋派は、やがて藩の役人の多くを占めるようになり、歴代からの家老奥平金弥ら対立する一派を藩政から締め出し始めた。天和三年(1683)黒屋派は、奥平金弥を家老職から退かせようとするが、反黒屋派(奥平派)の反対にあい、あえなく失敗。しかし、これにより家臣間の対立は、決定的となものとなり、親子兄弟でも、二派に分かれてしまう騒動にまで発展する。

○奥平金弥と黒屋数馬

 二人の家は供に、家臣団草創期よりの重臣の家柄である。奥平金弥の祖父は、亀山時代に大久保彦左衛門の取り成しにより松平家に仕え、以後代々家老を務めた。承応二年(1653)より年寄役となり、寛文元年(1661)清照に附けられ、数年を江戸で過ごしている。

 黒屋数馬も曾祖父が奥平貞能(松平忠明の祖父)の家臣で、忠明が作手を拝領した折りその家来となり、祖父の代から家老を務めた。但し、父は、理由は分からないが閉門を命じられ、失脚してしまった。やがて忠尚が養子と迎えられると、数馬が取立てられ、黒屋家は再び表舞台に登場してくるのである。

○深まる派閥争い

 事態を収拾するため、貞享元年(1684)奥平金弥は、忠弘の親戚筋にあたる老中大久保忠朝の内意を得て家老職を辞職した。貞享二年には、家中和議を図るため、松平忠弘・忠尚・大久保忠朝の意向を山田十郎兵衛、黒屋数馬、加藤太郎右衛門ら藩の重役が家臣一同に伝えたが、その直後、忠尚は加藤太郎右衛門を罷免してしまった。これ以後、黒屋数馬の専横は益々強まり、松平家草創期以来の家臣である山田一族の一人山田久弥を取込み、家臣の分裂は深まり、反黒屋派の中には、小さな科で閉門や切腹迄申し付けられる始末となった。
 もとをただせば、これは当主忠弘の嫡男・清照が病弱なため、松平忠尚を婿養子として迎えたため起きた相続問題だった。元禄元年(
168810月、事態を収集するため、相続問題は忠弘の嫡孫左膳(後の忠雅)を、忠弘の養子として家督を継がせ、親戚筋の旗本 久貝正方、溝口宣就、中号秀時を左膳の後見とした。

 忠尚には白川領内において2万石を分知することにした。しかし、反黒屋派からは、藩を立退く動きが起こり、これが後見の旗本達に知られると慰留されるが、尚、家老の山田十郎兵衛を通じて暇を言上した。元禄四年(1691)、反黒屋派の奥平金弥は対立する黒屋数馬と相談し、二人が藩へ暇を出すことで、事態の沈静化を図ろうとした。

○松平藩 減封

 ところが、数馬の息子が高禄で取り立てられ、黒屋派への優遇措置は変わらなかったことにより、白川の領民までもが反黒屋派を不義不忠の輩と噂するようになった。反黒屋派は、何度か後見の旗本達に取り成しを依頼したが、埒が明かず、遂に、元禄五年(1692)4月12日の朝、番頭 牧野久之丞以下七名が、出奔したのを皮切りに、19日の夜迄に、93名が立退いた。さすがにこうなると、幕府も黙ってはいられず、7月20日、松平忠弘、忠尚、中坊、久貝、溝口らを老中阿部正武邸へ呼び出し、以下のとおり処罰を言い渡した。
『本来は改易となるところであるが、「筋目有之者之儀」つまり、初代松平忠明が家康の外孫であることをもって、白川の領地を召し上げ、五万石を減封する。神田の上屋敷は召し上げ、下屋敷において忠弘に閉門を申し付ける。奥平金弥、黒屋数馬は、親子供遠島を命じる』というものであった。

▲松平忠雅像(松平忠晃氏蔵)

 さらに8月16日、松平家は白川から山形への転封を申し渡され、忠弘は閉門より逼塞となり、12月20日、家督を十歳の忠雅に譲った。以上が白川騒動の顛末である。

○伊勢桑名へ

 松平家は、領地を15万石から5万石へ三分の二に減らされたため、財政難は深刻となった。しかし家中の知行高を三分の二に減らすなど、いまでいうリストラを実行し、どうにか凌いできた。

 松平忠雅は、その後、備後福山、伊勢桑名(三重県桑名市)と転封をくり返し、桑名では文政六年(1623)忍へ転封を命じられるまで113年を過ごすことになる。

(はあとぴあ2004年6月号&7月号)
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忍城ものがたりN 松平忠堯 忍城主に

○松平氏、忍へ

 白川騒動の結果、十歳の忠雅が家督を相続し、松平下総守家は山形城、備後福山城を経て伊勢桑名城に移り、以後、113年間桑名城で過ごす。そして文政六年(1823)三方領智替えにより、突然、忍城に移ることになりました。この時の松平家の当主が忠堯(ただたか)で、二年前に家督相続したばかりで若干23歳。
 桑名の松平(
10万石)が忍へ、忍の阿部(10万石)が白河へ、白河の松平(定信)が11万石で桑名に入るという大移封。譜代雄藩の三つの藩が、移封になることは珍しいことでした。

 その理由は、松平越中守定信にあった。定信は8代将軍吉宗の孫にあたる。白河藩主のとき天明の大飢饉に遭うも、一人の餓死者もださない善政をしき、30歳で老中首座になって15歳の家斉将軍をたすけてきた。しかし寛政の大改革を断行したため、大奥の反発を買い、免職せざるを得なくなると、将軍家斉はその見返りに、定信の希望地桑名を与えることにしたのである。
 3月に移封の命を受けた松平忠堯は、家老山田某を忍へつかわし打ち合わせのうえ、阿部侯より3倍の2千人と家族の家屋敷を造成。8月には第一陣が出発。中仙道東海道を
26日かけての大移動が行われ、毎日50組の家族が桑名を出発したという。そして11月に忠堯が忍城入部することでこの大移動は終了した。

○桑名からの大移動

 桑名から忍への引っ越しの様子は、家臣の黒沢翁満が細部にわたって記録に残してある。そこには、引っ越しは家臣とその家族を含めると、多人数となり幾組にも区分して、日を分けて出発し、黒沢家は、1010日に出発。22日に忍に着いたこと。桑名では、107畳もある屋敷を賜っていたが、忍では38畳の屋敷となって、全体をみても、藩士に必要な数の半数にも足りない有様であったこと等、記されている。それは松平家が、白川騒動で10万石に減封された時、リストラにより家臣の数を減らすことをせず、現在の給料にあたる知行高を、減らしてしのいできたために、石高の割に家臣の数が、多いことがその原因だった。

 かかった総費用は10万両。今の20億円以上となる。忠堯は、1千軒の家臣の家を造り、桑名から東照宮を本丸に、菩提寺の天祥寺を埼玉村に、桃林寺を城西に、大蔵寺を駒形に、それぞれ移転新築し、天保七年(1836)には、桑名で藩校であった進脩館を忍で再興し、藩士の師弟の教育に当たらせるなど、家臣とその家族の移転を、見事に遂行させた。

 桑名から忍に転封した松平忠堯はその後15年間、治政に務め、天保8年に家督を弟の忠彦に譲ると、64歳で生涯を閉じます。しかし家督を継いだ忠彦もわずか一年で夭折してしまいます。行年36歳でした。そして天保12年(1841)忠彦の弟・忠国が28歳で家督を相続します。

(はあとぴあ2004年8月号)
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忍城ものがたりO 松平忠国の沿岸警備

○黒船来たる

 天保12年(1841)に忍城10万石の松平下総家の家督を相続したのが松平忠国です。

 ときは幕末。外国の船が鎖国の日本へ何度もやってきて、維新を目前にした風雲急の時でした。忠国が家督相続した翌年、幕府より異国船警備のため、房総半島の富津付近の警備を命じられます。忍藩から300人が出張。さらに五年後には、富津を会津藩と交替し、半島の先端州の崎と大房崎に転じます。そして今の館山市に陣屋を築城し、人員4500人、騎馬150騎を配備する。江戸湾の対岸の警備は、鎌倉までを川越藩、それ以南を彦根藩が受け持ち、江戸湾への異国船の侵入を防ぐことになりました。

 嘉永六年(1853)米国のペリーの浦賀来航は日本国中を震撼させた。ペリー提督による久里浜での「国書」奉呈後、米国艦隊は忍藩などの防衛戦を突破し、将軍の居城江戸城を、鑑砲射撃の射程内に置く羽田沖まで侵入しました。老中阿部正弘は譜代の大名を江戸に集め、忠国も江戸へ登城する。会議の結果、名案もないまま勝海舟の登用と、品川台場の建設を行うことに決定しました。
○御台場警備

 幕府は、二重防禦戦の考えから、海岸の砲台から二キロ先に台場を計画、早速、品川沖に一番から三番台場を建設し、第一台場を川越藩、第二台場を会津藩、忍藩は、三番台場の守備を命じられます。さて、この品川台場、今でこそレインボーブリッジ、フジテレビ、舟の科学館等、多くの人が集う名所になっていますが、忍藩が守った第三台場だけが公園として現存しているのも、行田の人間として感慨深いものがあります。

 台場の中でも最も大きい第三台場は9000坪の五角形の人工島。当時日本最大の

80ポンドの巨砲を10門の他、計26門の大砲を備えていました。忠国は砲術研究に力を入れ、現在の南小学校跡の他、市内の数ヶ所の演武場で大砲の訓練が行われた記録があります。

○日本開国

 しかし翌安政元年、再び、来航したペリー艦隊の圧倒的な軍事力の威圧のもとに、幕府は、米国との間に「和親条約」を横浜で調印します。ここに、三代将軍家光以来、二百余年続いた鎖国令は破棄されました。
 時代が大きく変わる中、忍藩でも安政六年、暴風雨のため、荒川と利根川が決壊。甚大な被害を及ぼし、忠国は幕府から莫大な借金をして復旧工事に勤しむことになります。忠国治政の22年間は多事多難であったが、忠国はよくこれをおさめたというのが後世の評価です。若いときは気が強く、怒りににふれると煙草盆を激しく叩くクセがあり、その度に家臣たちは愛妾八重園に機嫌をとりもってもらったといいます。しかし忠国自身、文武両道で、特に詩歌にすぐれて、毎年行われる熊谷の花火大会の会場である、荒川沿いの桜堤は忠国の植樹で、「さくら咲く 言伝もなし 都鳥」という短冊を江戸よりよこしたといいます。

 文久三年(1863)忠国は隠居し、養子忠誠に忍城主を譲った後も、治政をよく助け、維新に際しても帰順をすすめたことで忍藩は戦火を免れたことは特筆に値する。

忠国がいなかったら会津の二の舞になっていただろう。その後慶応四年、忍城とともに激動の生涯を過ごした忠国は、その忍城の中で55歳で病没しました。

(はあとぴあ2004年9月号)
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忍城ものがたりP サヨナラ忍城

○最後の忍城主

  松平忠国に男子が無く、文久元年(1861)、下野国(栃木県)烏山城主大久保家から養子を迎え、家督を相続させます。それが松平下総守12代忠誠(ただざね)です。このとき若干24歳。同時に忍十万石は幕末の風雲にまきこまれていく。忠誠が家督相続してまもなく、将軍家茂の上洛の御礼として、朝廷への使者を命じられます。翌年、この大役を終え、帰国すると、今度は、品川沖の第一台場の警備を命じられ、さらに同年、筑波山に決起した藤田小四郎・武田耕雲齋ひきいる水戸家の尊皇攘夷派、天狗党の乱の鎮圧にも出兵する。

 慶応三年(1867)、将軍慶喜の大政奉還後に大坂に到ると、忠誠は将軍家連枝として、かつて藩祖松平忠明が建立した建国寺に入り慶喜につきそいます。翌四年、鳥羽伏見の戦いが始まると、慶喜は大坂城を退去、江戸に逃げ帰ってしまいます。忠誠も、慌てて和歌山経由にて江戸に海路脱出します。この時、建国寺と東照宮にあった宝物を、戦火から守るために運び出し、忍の東照宮に奉納しました。

○危機一髪!羽生陣屋

 そのころまだ忍藩では官軍に恭順するか旧幕府軍につくかの決断が出来ないでいた。官軍となった薩長軍は恭順した諸藩兵と共に、東海道・中仙道から進撃開始。やがて総督岩倉具定率いる官軍は熊谷宿に入ってくる。一方幕臣古屋佐久左衛門率いる歩兵隊(衝鋒隊)も忍城下に入り、羽生陣屋に布陣した。当時城主忠誠は江戸にいた。忍城をはさんで官軍幕軍がにらみ合い、このままいけば忍城下が戦場となるのは必至。一藩の運命に関わるピンチに、御用人岸嘉右衛門は速やかに古屋を忍から去らしむる外に策なしと決心。両軍の板ばさみになった忍藩は、古屋を説得し、軍資金を与えて館林へ出立させる。途中上州梁田に着陣した衝鋒隊を熊谷宿を出発した官軍が急襲、衝鋒隊はその後、会津に入り会津戦争や函館戦争を転戦していく。衝鋒隊と入れ替わりに羽生陣屋に官軍が入ってきた。忍藩の官軍帰順を信じてない官軍の河村隊長(後の海軍大将)は、陣屋内に古谷が残していった火気類があったため、陣屋を預かっていた忍藩士丹羽蔀(しとみ)を詰問する。すわ戦争かとなるところ、説明に窮した丹羽は、突然切腹することで二心なきことを示し、その場はことなきを得た。

○忍城、官軍へ帰順

 しかし忍城下に入った官軍は、ついに忍藩に恭順するか否かの決定を迫る。そしてついに忍城は隠居した忠国の指導により恭順。家老鳥居強右衛門(武田勝頼に殺された強右衛門の子孫)は恭順の誓詞を官軍に提出し、忍城は開城となりました。ときに慶応四年(明治元年)3月11日のことでした。その後忍藩は官軍に組み込まれ、翌日には長州軍に従って兵を派遣。北関東から東北にはいり白河・二本松・福島と各地で転戦します。

○忍城消えゆ

 このころ心労がたたった忠誠は病気がちになりました。そこで米沢藩主上杉家から養子をもらい、名を忠敬(ただのり)と称します。そして翌明治2年6月忠誠は病没。家督を相続しわずか7年間でした。ただちに忠敬が相続するが、その直後藩籍奉還となり、忠敬は忍藩知事となります。忠敬の封地は従来どうりでしたが、明治4年7月に廃藩置県が執行されると、忍藩は忍県となり、武蔵県知事がおかれると忠敬は退城を余儀なくされます。翌月に殿様離別の宴が3日間行なわれ、松平忠敬は多くの藩士に見守られつつ、坂巻の船着場から東京へと向かっていきました。

 同じ年の11月には忍県・岩槻県・川越県が廃され、新しい県域が定めらた埼玉県が誕生します。そして明治6年、忍城は江戸に近い雄藩として建物から一木まで残さないまでに取り壊しを命じられ、戦国時代成田親泰によって築かれた忍城は、383年の歴史に幕を閉じました。(完

(はあとぴあ2004年12月号)
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田山花袋の『田舎教師』

○明治自然主義の名作「田舎教師」

 明治32年、父と共に熊谷から行田に夜逃げしてきた小林秀三は、行田から三里の道を歩いて熊谷高校に通学し、苦学のすえ卒業する。そして羽生在の小学校の代用教員となるが、日露戦争の大勝のさ中に、羽生の建福寺でひとりさびしく病死した。その薄幸な青年の生涯をモデルに、行田・羽生を舞台にした小説が田山花袋が描いた『田舎教師』である。おかげでかつては、明治文学・自然主義文学に興味を持つ学生達が、年々「文学めぐり」に行田地方を訪ねてきて、なかには大仏次郎や川端康成も来たらしい。

▲建福寺の小林秀三の居間

 羽生の建福寺に訪ねていた田山花袋が、偶然、新しい墓石をみて、小林秀三の事を知り、「さびしく死んで行く青年もあるのだ」と感じたのが「田舎教師」の執筆の動機だったらしい。それから後、花袋は六、七回にわたって行田を訪ね、石島郁太郎の案内により、行田、熊谷の実地調査をしている。

 既に『蒲団』で名声を博している文豪を案内した文学青年石島郁太郎氏は「自分が執筆する様に興奮した」と語ったことがある。行田地方の風物が、生々と、大体間違いなく描写されているのは、確かに石島氏の文学的案内があったと思う。これを文献に尋ねると、花袋の「梅雨日記」に「新に着手すべき「田舎教師」の材料を蒐集する為、武州行田町に赳く。此用にて此町に来る、既に五、六回なり。馬車鉄道を町の角にて下り、石島君を訪ふ、始めてなり。青縞商。角帯に眼鏡。家に病人あればとて、二三軒先の行田青年倶楽部の二階に誘はる。田舎教師の主人公の書簡及び遺稿を示さる。(中略)今津君来る。共に出でて、行田の城址を散策す」と。

 明治42年6月、石島と今津が花袋を連れていった行田青年倶楽部は今の本町の大島薬局と飯田屋奈良漬店のそばで、北埼信用組合の跡にあった。行田倶楽部というのは、いわば今で言う商工センターというようなもので、行田の商工会議所の誕生したところといってもいいのであろう。忍町商工会、行田足袋同業組合等が入り、忍学友会(熊谷中学の生徒会)、忍十五日会の図書がここに入って発足していた。

○主人公 林清三のモデル

▲右が小林秀三 真ん中おいて
 左が萩生役の藤原善三郎

 「田舎教師」の主人公、林清三のモデル小林秀三は、明治17年、足利で生まれた。

 父小林新三郎は、足利市の織物問屋で明治12年には同業の総代の一人にまでなったが、明治25年の辻豊の大火で類焼し急激に没落して、明治26年春、秀三の八歳の時、熊谷の「郵便局の前の小路の奥に、一家はその落魄の身を落着けた」そして、彼の中学四年生まで、そこにいて、明治33年冬「行田町の大通から、昔の城址の方へ行く桜町にあった」行田の家へ、「冬の月が照って、二台の車の影と親子四人の影とを淋しく黒く地上に印し」「彼是十二時に近く」夜逃げして来て、明治37年まで、足かけ7年を行田にすごした。      

「家は行田町の大通から、昔の城址の方に行く処にあった。角に柳の湯という湯屋があって、それと対して綺麗な女中のいる料理屋の入口が見える」とあると、今もある「柳の湯」と「料理屋魚七(現在のバーミアンの処)」からして、その角を南へ曲がったあたりだったようだ。父が書画など取り扱う程度だったので、家計も苦しく、代用教員となったのは、小説の通りである。

○その他の登場人物たち

 小林秀三の他に花袋は行田に実在した人物をモデルに小説に登場させているので紹介します。あわせて小説を読み直すと面白いかもしれません。

加藤郁治(本名 狩野益三)

 視学狩野徳次郎の子で、小林秀三とは、熊谷高校の同級生。大きな体で、角ばった顔だった。不動岡中学(高校)、熊谷商業で教鞭をとっていた

 石川機山(石島郁太郎、儀助、薇山)写真右から3番目

 行田本町の、今は飯田屋となっている土蔵の大きな家で、古い青縞問屋の長男。俳句で有名な石島鶏子郎は弟分

 澤田〜行田印刷所(本名 今津寛之助)右から5番目

 江戸時代より木版業であったが今津徳之助が、県下でさきがけて明治18年頃、活版所となったという。寛之助は、熊谷高校で同級生で、共に徒歩で二里半の道を通学した。

 大島喜代三郎 写真一番右

 本町の大島薬局。熊高の同級生
 荻生(本名 藤原善三郎) 

 羽生郵便局、熊谷高校の同級、熊谷の人、作中でも、最もよく秀三の世話をし、その建福寺の墓石を作った人

(はあとぴあ2005年1月号)
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